白川郷の大家族制
一つの家の家族員数が多い「大家族」制はとりわけ白川村南部の「中切地区」と北部の「山家地区」に集中してみられました。明治期に入りその特徴は顕著になり、国の重要文化財となっている遠山家では一番多い時(明治30年代)には45人程の人々が一緒に生活していました。
近世末期から明治期にかけて急速に拡大した養蚕経営の労働力確保と、山間の集落生活における土地条件の制約から分家創出が困難であったことが「大家族」制を展開させることになった主な原因と考えられています。


白川村の大家族の特徴
白川村の大家族の特徴としてまずあげられるのが、集落内の全戸が一様に大規模な構成をとっていることです。下の表は「大家族」制が見られた中切地区の各集落の明治35年の家族の数の規模を戸数ごとに分類したものです。これによると長瀬・御母衣・平瀬・木谷の各集落では、各家とも20人以上の大勢の家族構成をとっていることがわかります。集落の中で、ある特定の家だけが突出して大規模な例は東日本の農村によく見られましたが、集落全戸が大家族の例は全国的に見て大変珍しい事例でした。
もう一つの特徴は婚姻形式に見られます。家を相続する者(直系)は結婚後同居しますが、他の兄弟姉妹(傍系)、通称オジ・オバ達は結婚後もそれぞれの生家にとどまる「カヨイ婚」の形式であり、生まれた子供の大部分は母方の生家で養われていました。これも集落内の各戸にほとんど共通して見られていた点で大変特徴的であり、中切地区という特定の地域に、生活慣習上の制度としてこの大家族形態を創り出していたと言われています。


養蚕業と女性の労働
白川村の養蚕の特徴は、もともと耕地が少なかったため、桑の専用畑を確保する余地に乏しく、大部分が自然仕立ての山桑利用だったことです。しかもその桑は各所に点在していて、採桑に多くの労力を必要とし、これに女性の労力が投入されることになりました。
また、生産した繭は大体自家で糸に挽いていました。昭和11年頃から木谷集落を中心に調査に入った江間三枝子の著作「飛騨白川村」では当時の女性の糸挽きについて次のように記しています。
「(繭を収穫した)七月のうちから女たち四、五人で引きはじめて、秋の彼岸までかかったという。一人一日何升ずつのきめで、秋日が短くなってからはヒョービの油をともして引いた」
「糸は一人当たり一人前の女は三升挽かねばならなかった。一鍋に六合、五鍋であったが、片手で車を廻しながらという素朴な挽き方だから、非常に骨が折れた。朝早くから夜まで、手元にヘイビの油を燈してひいた」
このように養蚕業では女性の労力への依存が高かったことが窺えます。その結果、家業になじんだ女性はできるだけ生家にとどまり家業に従事してもらうことが期待されるようになり、次第にカヨイ婚の婚姻形態を派生させることになったと言われています。

明治45年当時の家族
自分の子供に限らず家の子供を家族員全員分け隔てなく育てました。
シンガイ稼ぎに見る大家族の生活構造

昭和10年頃の遠山家
母屋左側のコヤがシンガイ日に傍系夫婦たちのコヤ住み生活の場となった。
写真の遠山家所蔵の「心外物覚帳」は、嘉永4年(1851年)から明治24年(1891年)までの40年間にわたり、遠山家の家長が家族員から買い取ったシンガイ物を記録したものです。シンガイ物とは家族員がシンガイ日(休み日)などを利用して生産した私物のことで、遠山家のこの帳面には「稗・大豆・米・栗・蕎麦・桑の葉」などが売渡されたことが記載されています。このシンガイ稼ぎは子供と家長以外のほぼ全員が従事していました。
中切地区では「オオヤケ(家経営)」と「ワタクシ(シンガイ)」の区別が設けられており、5日目ごとのシンガイ日には、家からの食事の支給がなく自分達のシンガイ畑から収穫していた食料を自分の鍋で煮焚きをし、これを「シンガイ鍋」と呼び、別鍋の生活をしていました。遠山家ではこのシンガイ日の傍系夫婦の生活の場として母屋の隣に建つ「コヤ」を利用していました。
これらシンガイ稼ぎの実態から白川村の「大家族」制は、かつての研究者が評したような古代社会の遺制でも、家長権力による封鎖的封建的な家族形態でもなく、家業経営労働による商品生産を基礎としながらも家族員の個々人の私的な生活が尊重された非常に合理的な生活構造であったことがわかります。

「心外物覚帳」(嘉永4年)
シンガイ稼ぎで得た金は「日常必要品のこまごまとした費用にあてる。男は酒や煙草をかったり、(女は)冬の長着の綿入れや胴まりを作り、その上貯金をして京参りの費用をつくったりした。女はたいてい子供の二人、三人もっていたから、多くその費用になった。」(江間三枝子・飛騨の白川村より)

大家族研究の歴史
合掌造りが世の中に知られていくきっかけは、白川郷の特異な家族形態である「大家族」制であると言われています。社会学者、民俗学者といった多くの研究者がその研究対象として白川郷の大家族を研究しようと訪れました。その大家族の生活の器として合掌造りの存在が広く知られていくこととなっていきます。
白川村の「大家族」が注目されるようになったのは京都大学の藤森峰三氏が明治21年に大家族に関する論文を学術誌に紹介されたことに始まると言われています。その後急速に世間の注目を浴び、多くの研究者やジャーナリズム関係者が来訪し、白川村の存在が全国的に注目されるようになりましたが人々の関心は異文化に対する興味本位の域をでるものではありませんでした。そうした状況にあって科学的な研究視点に立って調査研究を行い、初めて学術論文として取り上げた研究者が日本経済史家として有名な本庄栄治郎博士です。
明治44年京都法学会雑誌(第6巻第3号)に発表した論文「飛騨白川ノ大家族制」は、まず学術用語として「大家族」を用いた初めての論文で、大家族制度の地方・原因・家長権をはじめ大家族の生活の諸相から大家族制度の将来の展望まで幅広く、組織的な研究成果を記述しています。この本庄論文は、その後、大正から昭和戦前に及ぶ数々の研究者の白川村大家族研究に大きな影響を与えることになった点で特に注目すべき論文と言われています。
調査資料の中には遠山家の当時の間取り図や戸籍謄本などが収集されており、博士が遠山家を拠点に調査をされたことがうかがえます。




大家族の研究者
明治、大正、昭和にかけ社会科学・社会学・民俗学・人類学・歴史学その他さまざまな研究者が白川村を訪れました。ここでは数々の研究者のうち代表的な研究者をご紹介いたします。


戸田貞三:1887(明治20年)-1955(昭和30年)
社会学者、東京帝国大学名誉教授。家族社会学専門。大正12年に行われた日本初の国勢調査の個票を用いて大正9年の全国の家族構成について明らかにし、日本における実証科学として社会学の基礎を確立した。
白川村中切地区6集落の家族構成について詳しい検討を行い、白川村の大家族の構成が一戸平均の家族員数が多いのみならず、世帯主との続柄関係において複雑な構成を含んでいることに注目。

有賀喜左衛門:1897(明治30年)-1979(昭和54年)
社会学者、東京教育大学教授、慶應義塾大学教授、日本女子大学学長。柳田國男門下、農村社会学の理論的確率を行った。
家の形態を、単一の家(戸主及び戸主直系の尊卑属のみが配偶者をもつかもちえる形態)と複合の家(戸主直系のみならず傍系、非血縁も配偶者をもつもの)に分類。白川村「大家族」制は家族とは異なる日本の家の一種(複合の家)であることを主張した。

小山隆:1900(明治33年)-1983(昭和58年)
社会学者、大阪大学教授、東京都立大学教授、東洋大学教授、日本社会学会会長。
戦前は日本の大家族を、戦後は日本の家族の変化や核家族化を研究。論文『山間聚落の大家族』(昭和63年)にて「所謂白川村の大家族は単に人員の多寡のみを以て簡単にかたづけられるべき問題ではない。広く大家族とは、親子中心の家族であるが、ここに問題とする大家族とは、単に傍系親族をも共に併せた広い範囲の血族共同体である」と述べている。

児玉幸多:1909(明治42年)-2007(平成19年)
社会経済史学者、文学博士、学習院大学名誉教授、同大学元学長。昭和天皇、今上天皇に日本史を講義する皇室教育にも携わった。
昭和24年論文「飛騨白川村の大家族制度とその経済的基礎」の中で、大家族の定義について「一人家長の統制下にあって、はじめて家族員相互の生活が成立ちうるもので、今日通常家族と呼んでいる者の外に血縁非血縁及び同居分居を問わず相当数以上の労力の提供者のある場合を大家族と読んだらよいかと思う。この相当数についても問題があるが仮りに「十名位とすれば一般の概念に適合するのではあるまいか」」と述べている。

柳田國男:1875(明治8年)-1962(昭和37年)
民俗学者。日本民俗学の開拓者。論文「大家族と小家族」(昭和15年)の中で大家族は「今ある家族のそのままふくれて大きく」なったのではなく、「多くの子で無い者を子とし、もしくは子といふものの範囲をずっと拡張し」たり、「共同の高祖に代るべき(中略)第二第三のオヤ」の存立を条件として成り立つものであると論じている。

柿崎京一:1926年(昭和元年)
社会学者、宇都宮大学教授、早稲田大学教授、宇都宮大学・早稲田大学名誉教授、元白川村教育長。
昭和28年より白川村に訪れ大家族研究を開始。これまで数多くの研究者が発見することのできなかった近世から明治にかけての「大家族」制を裏付ける地方文書を長期にわたる白川村調査のすえに発見。鳩谷ほか三か村の兼帯名主を勤めていた藤井家所蔵の文政年間の「宗門人別改帳」や遠山家所蔵の嘉永6年~明治24年までの「心外物」を家長が買い取った40年間の記録「心外物覚帳」などの家文書を基に科学的根拠に基づいた実証研究を重ねた。
その結果白川村の「大家族」制は決して珍奇な慣習から発生したものではなく、与えられた厳しい環境の中で、より良く生きるために創造した生活の仕組みであったと結論づけている。