五箇山菅沼集落の風景

 白川郷と相倉集落の間にあって、集落は庄川の流れが北から東に変わる地点の右岸の、南北約230m、東西約240mの舌状に北に突出した河岸段丘面にあります。集落の標高は330m前後で、ほぼ平坦な地形ですが、南東部がやや高く、それより北西方向に7mほど緩やかに下がっています。段丘の南背後は急傾斜の山地となっていて、保存地区は屋敷地と耕作地で構成される平坦部の範囲です。なお、ブナ、トチ、ミズナラなどの大木が生い茂る集落南側背後の山腹は木の伐採が禁じられていて、雪崩を防止する雪持林として保存されています。集落の位置は五箇山の他の集落と同様、雪崩が起きやすい山の谷筋を避けています。集落の中には縄文時代の菅沼遺跡があり、古くから人々が住み着いた場所であることがわかります。

 現在は戸数5戸(令和5年現在)と小規模な集落ですが、明治22年(1889)の記録によると、当時の菅沼集落は13戸で、旧上平村の19の集落の中では9番目に戸数の多い集落であり、その意味では旧上平村にあっては標準的な規模の集落であったと言えます。

屋敷地

 屋敷地は平坦部の南東に寄せられています。いずれの家も板倉や土蔵などの附属屋を有していますが、主屋に近接して建てられているものはわずかで、多くは離れた場所に建てられています。したがって、主屋と附属屋で屋敷を構えることはなく、それぞれの敷地は狭く、また、周囲に塀や生垣も設けていません。

耕作地と水路

 集落の北西部の低い土地にまとまった水田がありますが、このほかに屋敷地の周囲にも小規模で不整形な水田と野菜や豆類を栽培する畑があります。水田は以前は桑などを栽培していた土地でしたが1945年に対岸より水を引いて水田化しました。

五箇山菅沼集落の水田

伝統的建造物

 保存地区に現存する合掌造り家屋は9棟です。これらのうち、2棟は江戸時代末期(19世紀前~中期)、6棟は明治時代に建てられたものです。このほか1925年に新築されていたもの1棟があり、こに時代まで合掌造り家屋がつくられていたことがわかります。

五箇山菅沼集落の伝統的建造物の位置と範囲

南砺市菅沼伝統的建造物群保存地区内の保存物件一覧

区   分件数
うち茅葺き
伝統的建造物建築物主屋合掌造り家屋99
合掌造りを改造した家屋
非合掌造り家屋31
小計1210
その他付属建物143
宗教建築2
小計163
2813
工作物鳥居、灯篭、石垣、石段等2
環境物件社叢、樹木、生垣、水路等2
合計3213

歴史

古代中世

 菅沼集落のある河岸段丘からは縄文式土器が出土しているので、古代以前からこの土地には人が住んでいたと考えられます。中世には五箇山一帯に浄土真宗が浸透し、真宗教徒による村落が作られましたが、その布教の中心となったのは蓮如の弟子で菅沼の近くの赤尾集落に居を構えた道宗であったと伝わり、この辺りが五箇山の文化的中心となっていたことが推測されます。 

近世

 近世の上平村は加賀藩領であり、菅沼集落は越中五箇山のうちの赤尾谷に属していました。元和5年(1619)の検地帳によると村高は53石余で、和紙や塩硝が主要な産品であったことが記されています。また、僅かな土地での米作のほか、薙畑と呼ばれる焼き畑の耕作地で稗・粟やそばなどが栽培され、食糧の自給が行われていました。戸数は寛文年間には7戸でしたが、天保年間には9戸と記録され、明治5年(1872)には戸数14戸となり、田1反歩、畑9町歩、山林83町歩でした。

近現代

 明治22年(1889)に五箇山70ヶ村を分けて19ヶ村が上平村となり、菅沼集落はその一部となりました。藩政期には五箇山に13箇所あった籠の渡しの一つが菅沼にあったとされ文化年間の絵図によると現在の菅沼橋付近にあったと見られますが、明治12年には「篭の渡」が廃止されて吊橋が架けられました。また、この頃から五箇山では塩硝の生産が衰退し、代わりに絹の輸出振興策に伴って養蚕が盛んとなり、従来からの和紙とともに重要な換金正業となっていきます。その後菅沼を含む五箇山の山間の各集落にも政治・交通・産業の各分野にわたって近代化の影響が徐々に現れ始めました。昭和初期には自動車道が庄川沿いに開通し、電源開発が進み、水田が開拓されて、一層の近代化が進みました。太平洋戦争後の昭和30年から40年代にかけては、日本の急激な経済発展に伴う都市への人口流出による過疎化と住民の高齢化がみられるようになります。昭和45年には、菅沼集落とその周辺の茅場を含む山林14.5haが国の史跡に指定され、合掌造り集落とその環境の保存が図られることとなりました。

越中五箇山図(文化11年・1814)※菅沼村の記載
越中五箇山図(文化11年・1814)※菅沼村の記載