集落の中心部分は庄川の東側右岸に広がる南北長さ約1500m、東西最大幅約350mの三日月形をした河岸段丘にあります。また、集落北端から東に入る牛首川の細い谷筋沿いにも集落が延びているほか、庄川対岸の河岸段丘にも1戸だけの地区が飛地となっています。段丘の標高は500m前後で、ほぼ平坦な地形ですが、東の山際は若干高くなっています。保存地区はこの荻町集落の屋敷地と耕作地の大部分に東山麓の山林の一部を含んだ地域です。
3つの集落の中では戸数128戸(令和5年現在)と最も大きな集落で、明治9年(1876)の記録によると、当時荻町は99戸で、白川村の23の集落の中では最大の集落でした。
集落の骨格
集落の骨格は集落の中心を南北に走る幅員6mの自動車道と、耕作地と屋敷地の間を網目のように繋がりながら延びている幅員2~4mほどの村道で構成されています。村道は江戸時代からの形をそのまま伝えていますが、自動車道は1890年に設けられたものです。
屋敷地
多くの屋敷地は耕作地の間に点在していて、この形態が荻町集落の基本ですが、現在では自動車道沿いには連続した屋敷地も形成されています。それぞれの屋敷地は規模が小さく不整形で、道との関係もさまざまです。山際の傾斜地では石垣を築いて敷地を造成しています。多くの場合、敷地境は道路と若干の植栽、あるいは水路や田畑で区画されているだけで、特に周囲に塀や生垣を設けることもなく開放的です。多くの家では板倉や、ハサ小屋等の附属屋を所有していますが、便所を主屋の脇に建てるほかは、主屋からはやや離れた耕作地や山林の中に建てている場合が多く見られます。これは家屋が火災に遭ったときにも、倉やハサ小屋が消失しないための配慮です。
耕作地と水路
屋敷地の周辺には水田や畑が点在していますが、これらは小規模で不整形のものが多く、ややまとまった耕作地は集落の南と北に見られます。現在、畑では野菜や豆類等が栽培されていますが、以前は養蚕に必要な桑なども栽培されていました。水田に水を供給する水路は、村道と同様に屋敷地と耕作地の間を走り、曲がりくねりながら網目のように広がっています。明治21年(1888)の字図によると水路は明治中期以前にすでに形成されていたものと、導水路の開削や耕地整理などに伴い昭和中期までに形成されたものとに大別できます。前者の多くは湧水(シュウズ)を水源として形成されたもので、その湧水は、かつては飲料水などの生活用水や灌漑用水として幅広く活用され、屋敷地や水田の配置など、伝統的な空間構成の形成に重要な役割を担っていました。その後、大正15年(1926)に大俣導水路が整備されると、集落内で水田が拡大するのに伴い、水路はさらに広範囲に配されるようになりました。
伝統的建造物
荻町集落の合掌造り家屋は、棟を南北方向に通して建っており、集落北側の高台から眺めると合掌造りの三角形の妻面が全て同じ方角を向いている景色を眺望できます。このことは茅葺き屋根の屋根面を東西に向けることで均等に日の光が屋根面にあたり、濡れた茅葺き屋根を乾きやすくするための工夫とされています。同じ形態の建築物が規則的に群となって並ぶ様子は、極めて特徴的で印象的な集落景観を形成しています。保存地区内の合掌造り家屋は59棟ですが、明善寺庫裡は一般の家屋ではありませんが、造りは合掌造り家屋と同じで、これを加えると60棟です。これらの合掌造り家屋の多くは江戸時代末期から明治時代(19世紀前期~20世紀初期)に建てられたものです。最も古いとみられるものは18世紀中期から後期と推察されるもので、新しいものでは20世紀前期のものもあり、この時代まで合掌造り家屋がつくられていたことがわかります。
白川村荻町伝統的建造物群保存地区内の保存物件一覧
区 分 | 件数 | ||||
---|---|---|---|---|---|
うち茅葺き | |||||
伝統的建造物 | 建築物 | 主屋 | 合掌造り家屋 | 59 | 59 |
合掌造りを改造した家屋 | 1 | ||||
非合掌造り家屋 | 7 | ||||
小計 | 67 | 59 | |||
その他 | 付属建物 | 46 | 46 | ||
宗教建築 | 4 | 4 | |||
小計 | 50 | 50 | |||
計 | 117 | 109 | |||
工作物 | 鳥居、灯篭、石垣、石段等 | 11 | |||
環境物件 | 社叢、樹木、生垣、水路等 | 8 | |||
合計 | 136 | 109 |
歴史
古代
白川村の各所から出土する土器や石器、その他の遺物などによって、この地方ではすでに7,000年程の縄文時代早期には人間の生活が営まれていたことが窺われます。古代の白川村周辺の事情については明らかではありませんが、平安時代末期、九条兼実の日記「玉葉」の安元2年(1176)の条に初めて「飛騨国白川郷」の名が見え、その存在が知られます。また、寿永2年(1183)に木曾義仲軍との倶利伽羅峠での戦いに破れた平家の残党が白川郷に落ちのびたとする伝説も村人の間に語り継がれています。
中世
白川郷はもともと白山修験の一根拠地として天台宗寺院、長龍寺の支配下にありましたが、13世紀中頃に親鸞の弟子、嘉念坊善俊が鳩谷集落へ道場を建てて、飛騨地方に浄土真宗を広く布教すると、白川郷もその勢力下に入りました。この時期になると鳩谷ほか飯島など白川郷の集落名も文献に見られるようになるので、おそらく荻町集落もこの頃には形成されていたと推察されます。室町時代中期の15世紀中頃には信濃国から進出してきた内ヶ島によって白川郷は支配されることとなり、以後の110年間、白川郷は内ヶ島氏4代にわたって統治されました。その間は荻町にも支城が築かれたので、荻町集落は一段の発展をみたものと推測されます。
近世
天正13年(1585)の大地震により内ヶ島氏が居城帰雲城ごと滅亡すると、白川郷は飛騨高山の城主となった金森氏の領有するところとなりました。金森氏6代107年間の支配の後、飛騨国は元禄5年(1692)から江戸幕府の直轄地となり、荻町は代官支配の天領と浄土真宗高山御坊、照蓮寺の所領に分割されます。この時期の荻町集落は30戸前後であったと推定され、また、この頃から養蚕、塩硝の生産が盛んとなったとみられます。これらの生産には大きな空間と人手が必要であり、また換金産物による富の蓄積の裏付けもあって、家屋の規模の大型化と小屋裏空間の利用が促進され、今日見るようないわゆる合掌造り家屋の原型が形成されたと推定されます。
荻町集落の江戸時代の戸数の推移をみると、享保15年(1730)が52戸、天保12年(1841)が58戸でしたが、嘉永6年(1853)には80戸と大幅に増加しています。これは江戸時代末期の商品生産の発展によると推察されます。
近現代
明治22年(1889)に白川郷の41ヵ村のうち北半の23ヵ村が白川村、南半の18ヵ村が荘川村となり、荻町集落は白川村の一部となりました。明治初期の荻町は戸数99戸、人口約700人で、白川村の中心的な集落でした。
明治時代の荻町は養蚕業の進展を背景に戸数・人口とも緩やかに増加していきましたが、太平洋戦争前の昭和12年には戸数145戸と幕末期の2倍近くまでになりました。そして戦後の昭和30年に戸数332戸と一時的な激増期を迎えますが、これは高度経済成長期の3つのダム建設によるもので、その工事関係者の大量入村およびダムによる6つの水没集落からの移住でした。ダム工事が完了し、併せて都市部への人口流出による過疎化が顕著になると、昭和40年には戸数192戸(戸ヶ野地区を除くと150戸)と急激に減少しました。
このような状況のなかで、合掌造り家屋が比較的よく残っていた荻町集落では、その保存の必要が叫ばれ、昭和46年に地区住民による「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」が結成され、次いで「住民憲章」の制定をみて、合掌造りの家屋だけではなく、これらと一体となって歴史的風致を形成している水田・畑・旧道・山林などの環境も含めた集落全体を保存する運動が展開されました。その結果、「文化財保護法」の昭和50年の改正によってい新たに導入された「伝統的建造物群保存地区」の制度により、白川村は翌51年に条例を制定し、地区を決定し、保存計画を策定して荻町地区の保存に着手し、同年中に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。