相倉集落は庄川の左岸の川面よりやや高く離れた河岸段丘面にあります。周囲を山林に囲まれた標高400m前後の段丘面は、北東から南西へ約500m、南東から北西へ200~300mの細長い土地で、この平坦地に屋敷地と耕作地があり、さらに北西および南東の傾斜地の一部も耕作地に取り込まれています。保存地区はこの屋敷地と耕作地を中心とする部分ですが、集落背後のブナ、トチ、ミズナラなどの大木が生い茂り、雪持林として維持されている傾斜地の一部も含まれます。戸数は現在16戸(令和5年現在)ですが明治20年(1887)の記録によると47戸で旧平村の25の集落の中では4番目に大きな集落でした。
集落の骨格
集落の骨格は、ほぼ直線状に北東から南西に向かって緩やかに登る旧主要道(城端往来)と、この道から地形に応じて曲線を描きながら左右に延びている村道によって構成されています。これらの道は江戸時代以来のもので、幅員は2~3mです。現在ではこの他に、自動車のための幅員4mの道が1958年に集落の中央を貫く形でつくられています。旧主要道は集落の南半部で西方向に曲がり、さらにその先はつづら折れの山道となっています。この山道は急峻な山間の峠を越えて平野部に至るもので、1887年に新たに開設され、以来、近年まで地域の主要な道として利用されてきました。
屋敷地
屋敷地は石垣を築いて平坦に造成されていますが、周囲に塀や生垣を設けることはなく、開放されています。多くの敷地は主屋が建てられるだけの広さで、一部を除いて広い前庭を持つ家はありません。附属屋は土蔵や板倉、別棟の便所などですが、これらは全ての家に附属しているものではありません。なお板倉と土蔵は火災を考慮して、居住部分からやや離れた場所に建てられています。
耕作地と水路
耕作地のうち、屋敷地の周囲に点在する水田は、小規模で不整形のものですが、集落の北東にはややまとまった水田が見られます。これらの水田も屋敷地と同じく必要に応じて石垣が積まれています。また、北西の傾斜地には石垣を高く築いて水田がつくられていますが、この部分はかつての桑畑であったところです。集落の主な水利は、南西の仙道谷の谷水で、ここから導水し集落域の西側山裾に水路を走らせ、集落北西の山際から湧き出た水と合わせ、いくつかの水路に分けて供給しています。なお、水路が走る西の山側に家屋が多く、湧き水のあった北側に家屋群があります。水利条件が悪く耕作に不利な集落東側の小高い部分には墓地と火葬場があります。
伝統的建造物
保存地区内に現存する合掌造り家屋は20棟です。これらの合掌造り家屋の多くは江戸時代末期から明治時代(19世紀前期~20世紀初期)に建てられたものですが、最も古いものは17世紀に遡ると推察されます。また、新しいものは20世紀前期のものが3棟あり、この時代まで合掌造り家屋がつくられていたことがわかります。
南砺市相倉伝統的建造物群保存地区内の保存物件一覧
区 分 | 件数 | ||||
---|---|---|---|---|---|
うち茅葺き | |||||
伝統的建造物 | 建築物 | 主屋 | 合掌造り家屋 | 20 | 20 |
合掌造りを改造した家屋 | 5 | ||||
非合掌造り家屋 | 7 | ||||
小計 | 32 | 20 | |||
その他 | 付属建物 | 30 | 1 | ||
宗教建築 | 5 | 2 | |||
小計 | 35 | 3 | |||
計 | 67 | 23 | |||
工作物 | 鳥居、灯篭、石垣、石段等 | 5 | |||
環境物件 | 社叢、樹木、生垣、水路等 | 8 | |||
合計 | 80 | 23 |
歴史
古代中世
先史時代に人類がこの雪深い地に住み、この地にふさわしい生活技術で命をつないだであろうことが所々に出土する土器やその他の遺物によって立証されています。古代の相倉周辺は、人形山を中心とした天台系の山岳修験道の場として開かれました。人里離れた深い山間の地であることから平家の落人伝説も残されています。中世には、五箇山一帯に浄土真宗が浸透し、真宗教徒による村落が作られました。天文21年(1552)の瑞願寺(南砺市下梨)の十日講起請文連署に「あいのくら太郎次郎」の名が見られ、すでに集落が存在していたことが確認されています。
近世
近世の平村は加賀藩領であり、相倉集落は越中五箇山のうちの下梨谷に属していました。元和5年(1619)の検地帳によると村高は121石余で、和紙や塩硝が主要な産品であったことが記されています。また、薙畑と呼ばれる焼き畑の耕作地で稗・粟やそばなどが栽培され、食糧の自給が行われていました。戸数は寛文年間には15戸でしたが、天保年間には42戸と記録され、明治8年(1875)には戸数47戸で、畑24町歩、山林143町歩でした。
近現代
明治22年(1889)に五箇山70ヶ村を分けて25ヶ村が平村となり、相倉集落はその一部となりました。藩政時代以来利用していた城端町に通じる朴峠越えの道が至って難所であったことから明治20年に道谷新道が作られ、相倉はその登り口となったために、これまで以上に村の中で主要な集落となりました。しかし、昭和初期に開通した自動車道は、この集落を避けて設けられたために、交通の要所としての相倉の重要性は失われていきました。太平洋戦争後の深刻な食糧難をむかえ、開拓地整備事業を取り入れて桑畑等の水田化が進められ、主食の自給化を図ってきました。日本の急激な経済発展に起因する都市への人口流出による過疎化と住民の高齢化は、ここ相倉集落にも見られます。また、明治35年に開設された小学校の分校も学童の減少により廃校となり、本校に統合されたことは集落の変貌を示す大きな出来事でした。昭和45年には、相倉集落とその周辺の茅場を含む山林42haが国の史跡に指定され、合掌造り集落とその環境の保存が図られることとなりました。