保存の歴史
白川郷・五箇山の
保存の歴史・取り組み
―― 一世紀で92%減少した合掌造り家屋
白川郷と五箇山地方の合掌造り家屋を中心として構成される各集落は、江戸時代後期から太平洋戦争前までは、塩硝や養蚕等の増産によって、徐々にではあるが戸数を増やしながら安定的に発展してきました。しかし戦後の急激な経済発展によって、山間の農村の生活形態も著しく変化し、また、都市への人口流出による過疎化が進みます。特に合掌造り家屋は養蚕業の発展によって形成された家屋であるため戦後の養蚕需要の低下により近代的な家屋へと建て替えが進みました。
平村(五箇山)で解体される合掌造り家屋
昭和42年に集団離村した加須良集落(白川郷)
この変化の状況を現在と約1世紀前のデータと比較してみると、19世紀末には白川郷と五箇山地方合わせて93の集落に1800棟以上の合掌造り家屋がありましたが、1994年の時点では、合掌造り家屋が全く失われてしまった集落は60(うち、集落そのものが消滅したもの17)にのぼり、集落内に残された合掌造り家屋はわずか144棟となってしまいました。1世紀の間(特に戦後約25年間)にその92%が消失したという衝撃的な事実です。
なお、この減少の時代には日本各地の野外博物館に移築・保存されたり、都市部のレストランや観光施設に再利用されるものが多く今でも現地で活用され続けているものあれば、建物の維持が困難で取り壊されているものもあります。いずれにしろこのことは合掌造り家屋が日本の木造民家の中でも非常に珍しい形態を持ち、貴重な建築であったことを示していると言えます。
19世紀後期の合掌造り家屋分布
1994年の合掌造り家屋分布
※斎藤英俊編「世界遺産白川郷・五箇山の合掌造り集落」1996
※斎藤英俊編「世界遺産白川郷・五箇山の合掌造り集落」1996
―― 保存の歴史
このような状況の中で、白川村荻町集落では、その保存の必要性が叫ばれ、1971年に地域住民による「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」が結成され、住民憲章の制定をみて、合掌造り家屋だけではなく、これらと一体となって歴史的風致を形成している、水田・畑・村道・山林などの環境も含めた集落全体を保存する運動が展開されました。その結果、文化財保護法の1975年の改正によって新たに導入された伝統的建造物群保存地区の制度により、白川村は翌1976年に条例を制定し荻町集落の保存に着手し、同年中に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
守る会設立当時の荻町の青年層
重伝建選定頃の荻町集落
一方、このような状況を深刻に受け止めた文化庁(当時は文化財保護委員会)では、1951年と56年に白川郷と五箇山地方の民家の学術調査を実施し、その結果、合掌造り家屋の代表的なもののうち、1956年と71年に白川村の2棟(旧大戸家住宅、旧遠山家住宅)を、1958年に平村の2棟(羽場家住宅、村上家住宅)と上平村の1棟(岩瀬家住宅)を、それぞれ重要文化財に指定して現地での保存を図ったほか、1970年に五箇山両村からの要請を受けて、五箇山地方で比較的保存状態の良かった平村の相倉集落及び上平村の菅沼集落とその周辺の山林を国史跡として指定し、保存を図りました。
その後1995年の世界遺産登録にあたって、相倉、菅沼集落にも伝統的建造物保存地区制度を導入して保存の手法を統一することとし、1994年8月より制度が発足し、同年12月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
史跡指定前の菅沼集落(1959年頃)
史跡指定前の相倉集落(1957年頃)
昭和56年荻町集落放水銃整備完了後一回目の放水
―― 火災の備え
昭和56年荻町集落放水銃整備完了後一回目の放水
合掌造り家屋は木造、茅葺きの建物で非常に火災リスクの高い建物です。そのため各保存地区とも保存地区となった後に取り組んだのが消火設備の整備です。荻町集落では60基の消火栓付き放水銃と62基の消火栓を集落全体に配置し、水源となる600tの貯水槽を集落北側の高台に設け高低差の水圧で放水ができる自然流下式の放水設備を整備しています。相倉集落では37基の放水銃と14基の消火栓と防火水槽6か所(総計505t)、菅沼集落では放水銃24基と消火栓5基、5か所に貯水槽(総計740t)を整備しています。放水銃は合掌造り家屋への類焼を防ぐもので、燃えた家屋からくる飛び火を水のカーテンで守る役割を持つもので年一回の一斉放水訓練が行われています。
これら防災設備の管理は住民自らが行い、荻町では防火水槽や水源となる山水の取り入れ口の点検を毎日かかさず輪番制で行っています。
相倉集落の放水訓練
菅沼集落の放水訓練
荻町集落の放水訓練