合掌造りの成立
合掌造り家屋の成立時期
現存する合掌造り家屋では、
その伝承や建築技法などにより17世紀末頃の建築と推測されるものが最も古く遡り得るもので、また、古い平面形態を示しているので、
この頃、合掌造り家屋の原型が成立し、塩硝生産や養蚕が盛んになる18世紀中期から19世紀中期にかけて規模が大きくなり、
小屋裏の利用が進展したものと推測されています。
合掌造り家屋は建築年代がはっきりとわかっている建物が少ないのですが
江戸後期の家になると棟札や普請帳などが残され建築年代を特定できる家がでてきます。
まず白川郷御母衣の重要文化財旧大戸家住宅(現:下呂市所在)には天保4年(1833)の棟札が残されています。この棟札には越中長坂村の大工棟梁の名が記され加賀藩御抱大工集団が白川郷南部地方に入っている貴重な資料です。同じ御母衣の重要文化財旧遠山家住宅にも嘉永3年(1850)の「家作伍長覚帳」という新築祝いの記録が残されています。白川郷大牧の太田家住宅(現:名古屋市所在)には天保13年(1842)の「人足もらい覚え長」「惣ま人足覚長」などの普請に関わる文書があり、合掌造り建築時に提供された物品、人足、金銭の記録や建築時に関わった職人の出役と賃金の支払い記録が残っています。五箇山では小瀬の富山県指定文化財羽馬家住宅に文化9年(1812)から製材を始め同11年までには竣工した普請文書が残されています。
下呂温泉合掌村移築前の大戸家住宅
旧大戸家住宅棟札 天保4年(1833)
棟札上段中心に越中長坂村大工新右衛門とある。
重要文化財旧遠山家住宅
旧遠山家住宅「家作伍長覚帳」 嘉永3年(1850)
伍長は新築祝いのこと
名古屋市東山植物園に移築された旧太田家住宅
旧太田家住宅「人足もらい覚長」「惣ま人足覚長」 天保13年(1842)
五箇山小瀬の羽馬家住宅
羽馬家住宅「大工作料覚帳」 文化10年(1813)
このように見ていくと、どの家も巨大な合掌造り家屋で間取りも書院座敷が整備されるなど合掌造り家屋が成熟した時期の建物と言えます。その後の明治期のものも多く残っており、昭和初期のものが現存するもっとも新しい時期の合掌造りとなります。以上のことから合掌造りが現役で建築された時代は17世紀末期頃から20世紀中期頃までのおよそ250年間の期間と言えます。戦後になると養蚕需要の減衰とともに合掌造りは建てられなくなりトタン屋根や瓦屋根の家に置き換わっていきます。