五箇山の合掌造り

 合掌造り家屋は、屋根を構成する2つの材を60度近い急角度で組み合わせることで、高い耐雪性を持たせるとともに、養蚕に適した広い屋根裏空間を確保した、日本独自の民家形式です。この建築様式は、全国でも五箇山と白川郷、そして両地域に隣接する一部の山間部でのみ見られる極めて貴重なものです。
 五箇山には、合掌造り家屋の発展の過程を知るうえで重要な歴史的建造物が数多く残されています。合掌造りは基本構造こそ共通していますが、建築年代や用途、気候風土、家ごとの生活スタイルの違いによって、間取りや外観、細部の構造にはさまざまな変化が見られます。このように、地域ごとの個性が反映された多様な姿を持つこともまた、合掌造りの大きな特徴の一つとなっています。

相倉集落の合掌造り

 相倉集落には住宅が35棟あり、そのうち20棟が合掌造り家屋です。合掌屋根が掛かる部分の床面積は51~171㎡と幅があり、規模に多様性が見られます。五箇山地域では妻入りの建物が多いのですが、相倉集落では規模の大きな建物は平入となる傾向があり、平面形態にも多様性が認められます。また建築年代も17世紀末頃から昭和7年までと幅広く、その変遷から合掌造り家屋の発展過程を知ることができます。

――五箇山で唯一残るマタダテ

「原始合掌造り」

 この建物は、柱を持たず屋根だけで構成される構造であり、嘉永から安政年間に建築されたものと伝えられています。昭和初期まで、一人暮らしのおばあさんがここに住んでいました。
 このように、土間の上に屋根をかけただけの簡易な構造の住居は、五箇山や白川郷では「マタダテ」や「コヤ」と呼ばれています。近世の五箇山では、このような簡易な構造の家屋と、一階の上に急勾配の屋根をかけた現在のような家屋とが混在していましたが、家屋の大型化が進んだ結果、マタダテは徐々に数を減らし、現在では相倉集落に残るこの1棟だけになりました。

原始合掌造り

 合掌造りの成立の過程においては、このようなマタダテが発達した、という説と、庄川下流域の寄棟屋根形式から入母屋形式を経て切妻形式の合掌造りになったという2つの説がありますが、はっきりとしたことは分かっていません。

――五箇山でも貴重な茅葺きの宗教施設

「相念寺」「西念仏道場」

 相念寺は天文2年に創建された真宗大谷派(東本願寺派)の寺院で、建物は安政6年に再建されたものです。合掌造り住宅と異なり、天井内の空間を広くとる必要がないため、小屋組は和小屋と又首組の組合せとなっています。また同集落内にある西念仏道場は元禄7年に創建された真宗本願寺派(西本願寺派)、福井県万法寺西本願寺派の下道場で、寂如上人より木像尊像を頂戴し与茂四郎家で安置していたと伝えられ、明治初期に圖書健裕宅の仏間を移築し内陣として新たに建築されたものです。

 加賀藩政初期のころから五箇山の各集落には念仏道場が置かれるようになり、浄土真宗が深く浸透していきました。今でも人々の信仰の拠り所とされて、家々では宗祖親鸞の恩に感謝し、親類縁者が集まって毎年秋に報恩講が営まれています。こうした信仰心の厚さは、念仏道場の維持や家屋の大型化にも影響を与え、今日の集落景観の形成につながったと考えられています。

相念寺

西念仏道場

――集落最古級の合掌造り 
「なかや」
最も新しい合掌造り  
「三五郎」

 相倉集落の「なかや」は、合掌造りの成立期と考えられている江戸中期(寛文~元禄)に建てられました。一方、「三五郎」は集落内で最も新しい合掌造りで、家屋は昭和7年に建てられました。このことからも、昭和前期まで合掌造り家屋を支える地域社会が存在していたことが伺えます。
 相倉・菅沼の合掌造りのほとんどが、妻側に半間ほどの下屋を造り、その中央寄りに玄関を設けた造りとなっており、平側に玄関を設ける白川郷の合掌造りとは異なった外観となっています。
 現在は下屋の屋根を鉄板葺きにしている家屋が多く見られますが、もともと茅葺きだった頃は、大屋根との取り合いを葺き回していたことから、入母屋風屋根に近い姿をしていました。

なかや

三五郎

――明かりとりのある合掌造り

「勇助」「与茂四郎」

 合掌造りは養蚕のために発達した建物といわれています。それほど広い場所を必要とし、蚕の飼育環境が重視されていました。蚕の飼育は、温湿度と採光通風管理が大変難しく、その点厚い茅葺き家屋は、日中、夜間、晴雨天候の温度差を和らげ、アマノコ・スの子張りの床はいろり火の温度を直接伝えて、蚕児を寒さと高湿から守りました。また、窓は採光と通風を調節し蚕児の発育に重要な働きをすることから、大型の合掌造りでは妻側だけでなく、屋根の中央にも養蚕用の窓がつくられました。

勇助

与茂四郎

――茅葺き二階建ての合掌造り

「穴次郎」

 合掌造り家屋は、豪雪地帯の建築物にしては軒が低いところに弱点がありました。これを補う様式として、明治末期から大正期にかけて、いわゆる「二階建て合掌造り」が出現しました。穴次郎家はその典型的姿を今に残す貴重な建物です。しかし五箇山では、昭和の初めころから茅の葺き替えを必要としない瓦葺きや板葺きに改造する家が増えたため、新たな様式として定着することはありませんでした。

穴次郎

――合掌を下ろした家屋

「旧高田家住宅」など

 五箇山には、茅葺き屋根の維持が困難になったため、かつて合掌造りだった建物を改造し、合掌構造を取り除いて、瓦葺きに変更した例が多くあります。
 しかし1階部分の構造はそのまま残されており、チョウナ梁などの構造部材を今でも確認することができます。このような改修は伝統的な建築様式を完全には保持していないものの、実用性と生活の便宜を優先した結果であり、現代の生活に適応するための工夫といえます。
 相倉集落には、このような元合掌造りの建物が4棟あり、いずれも昭和28年から49年にかけて瓦や板金に葺き替えられたものです。

旧高田家住宅

菅沼集落の合掌造り

 集落内には住宅が12棟あり、そのうち9棟が合掌造り家屋となっています。9棟のうち5棟は明治初期から大正期までに新築されたもので、残りの4棟は、もともと江戸後期から明治前期頃に建築された建物と考えられており、天保6年から明治27年にかけて他村より菅沼に移築再建されたものです。
 集落は、明治24年に14戸中8戸を焼失する大火に見舞われており、現存する合掌造り家屋9棟のうち4棟はその後に新築又は他村より移築されたものとなっています。
 合掌造りは中規模以上のものがほとんどで、全てが妻入りとなっています。

――集落最古級の合掌造り

「五箇山民俗館」

 明治24年大火の被害を免れた建物で、集落内で最も古い合掌造り家屋です。建築年ははっきりと分かっていませんが、天保6年に他村より移築したものと伝えられています。
 外観は、入口側に下屋を出し、これを茅葺きにして主屋根と葺き合わせるため、一見して入母屋造りに見えますが、下屋と主屋根は構造的には分かれており、実際は切妻屋根の構造形式となっています。現在では下屋の屋根を鉄板や瓦に葺き替えた家屋も多く見られます。

五箇山民俗館

――集落内唯一の2階建ての茅葺き

「お土産かっぱ」

 菅沼集落で最後に建てられた茅葺き家屋で、昭和8年に建築されました。またこの建物は菅沼集落で唯一の2階建て茅葺き家屋となっています。
 合掌造り家屋は、豪雪地帯の建築物にしては軒が低いところに弱点があり、これを補う様式として明治末期から大正期にかけて、いわゆる「二階建て茅葺き家屋」が出現しました。しかし昭和の初めころに、茅の葺き替えを必要としない瓦葺きや板葺きの家屋への改造や新築が始まったため、新たな様式として定着することはありませんでした。

お土産かっぱ

――ヒダチサクミが残る合掌造り

「神明社前の板倉」

 板倉とは農産物や道具を保管する建物のことで、柱や貫の間に横板を嵌めた丈夫な構造を持ち、建物の高さをやや高くした簡素なつくりが特徴です。五箇山には希少な茅葺きの板倉が3棟現存しており、その全てが菅沼にあります。
 「ヒダチサクミ」とは茅壁のことを指す呼び方です。現在の合掌造り家屋の妻壁は全て板壁や障子戸になっていますが、かつては茅で葺かれていたものも多く存在しました。現在では、菅沼の板倉、相倉の相念寺と田向地区の流刑小屋(県指定文化財)にのみ残されています。

神明社前の板倉

――スズメオドシのある合掌造り

 菅沼集落の合掌造りには、棟端部に「スズメオドシ」と呼ばれる飾りがつきます。この飾りは相倉の合掌造りには付いておらず、菅沼の合掌造りにだけ見られる特徴となっています。一方、白川郷の合掌造りでは、棟に「ネソカクシ」と呼ばれる茅束を一定間隔に固定するという伝統があり、特に一番妻側のものは「カンザシガヤ」と呼び、端部を持ち上げて立派にみせる風習があることから、「スズメオドシ」はこの「カンザシガヤ」が菅沼に伝わったものではないかという説があります。しかし白川郷でみられる「ネソカクシ」は菅沼では見られないことから、なぜ「スズメオドシ」だけが付けられるようになったのか本当のところはまだ分かっていません。

菅沼集落の合掌造り

棟端部につく
スズメオドシ

五箇山の合掌造り

――日本で最大規模の合掌造り

「岩瀬家住宅」国重要文化財

 岩瀬家住宅は、もともと五箇山における塩硝の上煮屋であった長右衛門の家で、建築年代は明らかになっていませんが、科学的調査(放射性炭素年代測定)によると18世紀中期(1750年前後)まで遡る可能性が報告されています。加賀藩の役人が宿泊したといわれる座敷には、土間および式台の椽を付属させてあり、全体的に木割が太く、他の合掌造りではあまり見られないケヤキの良材が多く使われ、材料の仕上げが精良であることなど、この地方の民家としてもっとも発達した合掌造りの形式を示しています。

 世界遺産集落内にはなく、岐阜県(白川村)との県境に近い西赤尾町(にしあかおまち)にあります。1958年(昭和33年)に国の重要文化財に指定されました。

岩瀬家住宅

――五箇山地方の民家として基本的な形式をとどめる

「村上家住宅」国重要文化財

 五箇山にある民家のうち、基本的な形式をもつ最もすぐれた建造物で、合掌造りの家屋の中でも大型家屋の部類に属します。
 間口10.6m、奥行20.2mの一重四階建てで、壁はすべて板壁、柱間が7尺~8尺と大きく、この地方の有力な生産農家の構えを備えています。建てられたのは石山合戦(天正年間)の頃の伝えもありますが形式手法から江戸時代中期を遡らないと考えられています。
 世界遺産集落内にはなく、相倉の南にある上梨(かみなし)にあります。1958年(昭和33年)に国の重要文化財に指定されました。

村上家住宅

――五箇山地方の民家として最も初期的な合掌造りの姿を示す

「羽馬家住宅」国重要文化財

 羽馬家住宅は、比較的古い平面構成や形状構法などをよく残す代表的な民家で、五箇山地域の中では比較的小規模家屋の部類に属します。
 平面は、間口四間半、奥行き六間で、左右に二分し、それぞれ三区画して6室で構成されており、この地域特有のオエ・デイ・ネマ・ブツマの4室と土間のニワ・マヤを田の字型に区画する最も初期的な基本形を示しています。
 建築年代は古く、明和6年の田向村の大火のあと、嶋村から移築されたものと伝えられています。
 世界遺産集落内にはなく、相倉の南にある田向(たむかい)にあります。1958年(昭和33年)に国の重要文化財に指定されました。

羽馬家住宅(写真:羽馬家提供)

――日本で唯一残る御縮小屋

「流刑小屋」県指定有形民俗文化財

 元禄3年から、庄川右岸の七か村(猪谷、田向、大島、大崩島、祖山、小原、篭渡)は加賀藩の流刑地とされてきました。流刑者が居住する小屋は流刑小屋と呼ばれ、軽犯罪者の入る平小屋と重罪人が入る御縮小屋(おしまりごや)がありました。この流刑小屋は御縮小屋で、昭和38年の大雪で倒壊したものを古文書の仕様に基づき再建されたものです。再建の際、材料は全て新しいものに取り換えられましたが、食事差入れ口を設けた古柱1本だけはもともとの柱を使用しています。
 構造は栗の木の頑丈な柱に横板をはめた堅牢なつくりで、内側には厚い栗板が打ちつけてあります。内部は、敷板に用便穴が切り抜かれ、ムシロが敷かれています。また窓は戸にとられた明り窓のみで、食事の差入口が一か所あるだけの簡素なしつらえとなっています。
 世界遺産集落内にはなく、相倉の南にある田向(たむかい)にあります。1965年(昭和40年)に富山県の有形民俗文化財に指定されました。

流刑小屋